今年で、25年目を迎える阪神淡路大震災
朝起きたら、ニュースで高速道路が落ち、倒れる映像を見て地震のテロップを見ても何か起きたのかが掌握できない状況にあったことを思い出す。

その震災で被災した中に私の友人もいた。
友人と連絡が取れない中、落ち着いたところで現地に行っても落ち着いているとは言え、TVで見るよりも酷い被害を身をもって実感。
やっと会えた友人。
彼は、炊き出しや物資をかき集めるボランティアをしていた。
友人夫婦は助かったが、幼い子どもを家屋の倒壊で亡くしてしまった。
大切な子どもを亡くして気落ちする思いを抱えながらも、人のためにと動く友人。
彼は「今生きる人のためにできることをしなければ」と語っていた。
いろいろ友人と語り合う中、彼はこんなことを話してくれた。
「大きな困難に出会ったときに人の真価がわかる。どんなに地位があってもお金があっても、災害1つでそれは何の意味もなくなってしまう。地位や名誉や金持ちも、震災に遭ったらそんなものは何の役にも立たない。
震災は、人として本物なのか偽物なのかを試しているような気がする。人間の表面上のメッキが剥がされて、その中身は、金メッキか本物の純金なのかをあらわになってくる」
そう語ったことを今も鮮明に覚えている。

別の大阪の友人は、災害発生後、食べ物や水を抱えて物資を運び、少しでも役に立てないか、何かできることはないかと長い道程を歩いて現地に向かう。
知り合いの施設まで、あともう少しのところで「ここから先は部外者は入れない」と拒否される。
物資やボランティアと伝えても、断固拒否され、泣きながらその物資を抱えて帰って行った体験を話してくれた。
今だからこそ、ボランティアの活動は認証されているが、25年前は全ては公官庁主導だった…。

ほんとうに大変なとき、人はアドリブがきかない。
その人そのものの姿が表に出てくる。
だから、日々考えていくことが大切なのだと思う。

以前、恩師に次のように指導を受けたことを思い出します。
「人は、一念が変われば全てが望んだ方向に回り始める。1つの方向に心を定める。すると自分の考えや想いはその方向へと進んで行くんだよ」と。
「だから、「無理だ」とか「ダメだ」とか思ったら、その瞬間から無理でダメな方向へと向かって行ってしまう。“一念をどこに定めるか”それは自分次第なんだ。希望を持ち続ける自分でいるのか自ら敗北への道を歩むのか。心定める意味を理解すること」と一念の持ち方を教えていただいた。

全ては「気持ちの持ちよう」と言うことではない。
一念を定めるとは、どんな困難にもブレない自分でいることを指している。
一念は信念とも通じるのかもしれない。

25年目の震災の日。
当時の彼らの言葉と行動は、その一念とも信念とも言える強い思いがそこにあった。
今の自分に問いかける。
一念を定めた自分でいるか。
信念の道を歩んでいるのか。
日々考えていかなくては…。

今だからこそ、メッキでない本物の金でいることの重要性を感じる時はないと思うのでした。